聖徳太子が生きた時代

2018/02/15

 

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○挨拶

特色選抜の合否が発表されました。

残すは 中3会員は 県立本番のみ。

絶対 合格していこう。

聖徳太子が生きた時代     ー 激動の東アジアの中で  破壊と新時代創造  -

 

538年に百済より伝来した仏教をめぐり 神を信仰する物部氏と 仏教を崇拝する蘇我氏が対立した時代であり 蘇我氏と縁のある聖徳太子は 587年 蘇我氏と組み 物部氏をほろぼし 593年 推古天皇の摂政として 改革に乗り出した。天皇中心の中央集権国家を目指す彼の改革は 共同政治者である蘇我氏の警戒を生み 太子死後 蘇我氏が政治権力を握った。

  文化的には 太子の時代の文化は 飛鳥文化と呼ばれ 飛鳥地方(現在の奈良県)を中心とした仏教文化であり 時

期は 538年仏教伝来から 645年大化の改新まで。中国 朝鮮の文化を反映した国際色豊かな文化であった。

 

政治

 ◆ 593年 推古天皇の摂政となる

 ◆ 603年 冠位十二階制度で 能力主義の人材登用を実現

 ◆ 604年 十七条憲法で 役人の心得 哲学 を法制化

外交

 ◆ 607年 小野妹子を遣隋使として送り 対等外交を展開

文化

 ◆ 日本における仏教興隆を宣言

 ◆ 607年 法隆寺建立

 ◆ 歴史書を作成

福祉

 ◆ 薬草を集め 病気に苦しむ人々を救うため福祉施設 設置 

    

6世紀後半 朝鮮半島で3カ国が覇権を争い 中国では隋が統一を進めるなど 激動する東アジアに

おいて それまでの常識を破り 新しい日本創造のため 次々に改革を断行したのが聖徳太子である。日

本は 親交のある百済(くだら)と協力し 新羅(しらぎ)と対立関係にあり 国際的な緊張の中で自国を守

り 発展させるには 国際的人材育成が重要と考えた聖徳太子は既存の考え方を否定した。有力豪族の2世が重要な位に就任する制度を改め 身分に関係なく 有能な人物を採用するために冠位十二階を制定した。十七条憲法で 礼儀正しい姿勢 誠実な心で生きることの大切さを法制化し 仏教哲学を広め 渡来人を受け入れ 進んだ大陸文化を取り入れた。仏教の拠点として法隆寺を建立し ホスピタリティの心で 施薬院と名付けた貧民救済施設を設立した。 天皇家・豪族・庶民が 「和」の精神で統合し 協力関係を創り 仏教哲学で心を一致団結することで 国難を乗り切ろうとした。対外的にも 今までの中国に頭を下げる外交から 平等な立場で国交を開くことで 隋に日本という存在を認知させることに成功した。遣隋使を派遣し 有能な若者に海外体験を積ませることで 次代のリーダーを育成した。

BY ATSUSHI OHTANI